規格外の挑戦
2014.11.26 UP

クラフツマンという基準。

時計の耐磁性能については国際的にはISO、国内ではJIS1種(4,800A/m)とJIS2種(16,000A/m)の二つの規格が用意されています。
どの時計も「耐磁」をうたうかぎり、それらの規格に対して細かく定められた方法に従って検査を行い、基準をクリアしたものが合格ということになります。もちろんクラフツマンも試験には合格しています。しかし、それでいいのだろうかとの疑問が湧いてきました。耐磁について、自分の目と手で納得するためにはどうしたらいいのだろうかと考えました。

開発責任者の橋本直樹

ケースバックをスケルトンにして、軟鉄を見せることで耐磁性を見て感じてもらいたいと思います。


「耐磁時計」の基準。

JISでは1種の方が「日常生活において磁界を発生する機器に耐磁時計を5 cm まで近づけても、ほとんどの場合に性能を維持できる水準」と「JIS B 7024:2012」に記載されています。2種の方は5cmではなく、1cmまで近づけます。当然、条件は厳しくなります。「ほとんどの場合に性能を維持できる水準」という表現は一見あいまいなようだが、検査方法においては、生じる誤差(狂い)の範囲は細かく規定されています。
そもそも、なぜ腕時計に耐磁性能が求められるようになってきたのでしょうか。腕時計に強い磁力を近づけると、内部の部品が磁化されてしまいます。機械式時計においては心臓ともいえる脱進機の運動に乱れが生じ、精度に影響を及ぼします。こうなった場合、元の精度を取り戻すためには脱磁を行わなくてはなりません。
現代の日常生活では、多くの電子機器に囲まれています。携帯電話やスマートフォンをはじめ、思っている以上にウォッチが強い磁気にさらされる機会は多いです。携帯電話を例にあげると、スピーカー部には磁石が使われています。一般的な数値です、じかに密着させた場合、2万A/mもの強い磁場に置かれることになります。これでは規格として厳しい方のJIS2種でも耐えきれません。
いまスマートフォンでこれを読んでいる人は、どきっとしたかもしれないが、磁場は距離の二乗に比例して弱くなるので、上の携帯電話の例でいえば、5cm離せば1500A/m程度に弱まります。携帯電話を手に持った状態で腕にしたウォッチまで5cm程度とすると、JIS規格をクリアーした製品であれば、とりあえず問題はなさそうです。
とはいっても、スマートフォンを腕時計を並べて置いてしまったり、ネオジウムのような小型強力なマグネットを用いたバッグや財布といっしょにしたり、持ち方によっては近接させてしまう危険性も完全には除外できません。
世界一のヘビーユース・メカニカル・ウォッチをめざす以上、耐磁性能についても規格クリアに甘んじず、橋本は自分の五感で納得できるものにしたいと思いました。

公正な基準が世界の秩序を支える。

橋本が協力を依頼したのは、磁力という物理量の「基準」そのものを作っている機関です。「規格」を作る機関ではありません。「規格」の元となる「基準」を作る機関です。
JEMIC(日本電気計器検定所)は、家庭でも使われている電力量計をはじめとするさまざまな計量機器を検定・校正する機関です。一見、難しそうに聞こえますが、わたしたちの生活のなかでは、お肉を買うのも、タクシーに乗るのも、電気料金を払うのも、重さ、距離、使用量といった基準をもとに料金が算出されているものが多いのです。何の疑いもなく322gのお肉を買えるのは、322gを計量する機械が正確で公正なものだという信頼があるからです。ではその計測機械がちゃんとしているかどうかを誰が判断し保証しているのか、もしこの基準があやふやなものだったら、わたしたちの生活も混乱してしまいます。
話は生活だけにとどまりません。グローバルに品質の高さが認められている日本の工業製品ですが、製品の品質の高さを支えるのはパーツの精度の高さです。ひとつひとつのパーツが、求められる役割を寸分違わずこなし、しかもどの部品も性能にバラつきない状態でなければ、大量生産を前提とする工業製品は成り立ちません。寸法だけではなく、いまやミクロン単位の電子部品が正確な仕事をこなすためには、それらが持つ物理的な特性をも厳密な基準に依拠することが不可欠なのです。
今回の実験に協力してくれたJEMICの富永さんは、
「良い製品を作るためには、良い電子部品が必要になります。では良い電子部品とは何かというと、値や特性があらかじめ分かっていて、バラツキがないものです。バラツキをなくすためには、正確な測定基準が必要になりますが、基準になる数値を測定するのが私たちの仕事です」

JEMIC(日本電気計器検定所)のビルは東京・田町にあります。

いよいよインピーダンス・磁気試験室へ。


「基準」とは「作る」もの。だから「変わる」ことも。

誰でも当たり前のように1m、1kgというものを頭に浮かべることはできます。あたかも1mとか1kgというものが元から存在するように思ってしまいます。しかし富永氏によると、mもkgも含め、すべからく「基準」と呼ばれるものは誰かしらかが「作る」ものなのだと言います。
例えば現在の1kgは、フランス・パリ郊外に保管されている直径39mmの円柱形をしたプラチナ・イリジウム合金が世界の基準となっています。これは「国際キログラム原器」と呼ばれていますが、作られたのは、なんと19世紀末。40個が複製され、No.6原器が日本に渡り「日本国キログラム原器」となった。ただ年数がたつにつれて、わずかながら金属表面への吸着物等によって原器は重くなる傾向があります。1kgの基準は変化しているだけでなく、各国に配られた原器の経年変化の個体差により、国ごとに微妙に1kgの内実が異なっています。これではまずいということで、フランスの「国際キログラム原器」と比較補正したり原器を新造して入れ替えたりと、基準を維持するというのも、なかなかたいへんなことなのです。
ただ、現在ではモノが基準となっているのはkgぐらいです。磁力も含め、他のすべての基準は普遍的な物理量に基づいて値が定義されています。そしてJEMICは日本における磁力の基準を作っています。富永氏がやっているのは、ものごとの基準となる「絶対値」を追い求める仕事といっていいでしょう。
「物理現象を使って、正確な基準をつくるんですね」
自分の頭なりに理解したことを確かめてみますと、富永さんはうーんと首をかしげて「量子化された物理現象」と言い直されました。
さすが基準の番人。たったひとつの言葉に対しても、厳密さにおいて妥協はありません。

国際キログラム原器(画像引用:ウィキペディア)

ヘルムホルツコイルの前で富永氏さん(写真中央)から説明を受けています。


インピーダンス試験室へ。

ヘルムホルツコイル。車輪を並べたような特徴的な形のこの機器が今回の主役です。
ヘルムホルツコイルは、まるで結界のように金属のやぐらに囲まれています。この金属枠で地磁気の影響をキャンセルさせた上で、ヘルムホルツコイルで正確な値の磁力をかけます。
磁力の基準は、核磁気共鳴型磁力計(NMR)によって周波数をもとに作っています。橋本と富永氏が作業を進めていきます。


富永氏から、そもそも、どうしてうちを? と橋本に質問がありました。知るかぎり、ウォッチメーカーで検査を依頼してきたところはケンテックスがはじめてとのこと。そこでも橋本は、理論と現場は違うから、自分の考え得るもっとも納得できることをやってみたかった、という説明をしました。
言葉でこそ言わないものの、もしかしたら橋本は腕時計に関する工業規格に個人的には納得していないのかもしれない。そういえば過去に腕時計の耐水性について、クロールで泳ぐ人の腕にかかる水圧を自分の手で計算し、「JIS規格で大丈夫なのかなあ」と言っていたこともありました。
その計算の前提や加味すべき要素が、どこまで正しいのかは分かりません。ただ、橋本は世界が「基準」として賦与したものについても、いつも自分の手を動かして考えます。納得しなければ、そのうち自分で基準を作ろうとしはじめるかもしれません。